「翁は初め松村翁に学んだのだが後年多くの感化を受けたのは那覇の長浜と云ふ人であった。翁の流儀は即ち那覇六分首里四分と云ふ方である」
屋部憲通 「鋼鉄の如き拳 老練熟達の名人」(『琉球新報』大正4年3月14日記事)より
「元来糸洲先生は、最初松村先生に教へを受けて居られたが、如何にも糸洲先生は鈍重で、先生の気に入らなかつた。そこで熱心に稽古をするけれども、肝心の師の方でおろそかであつたので、遂に退いて那覇の長浜先生の許に通ふことになつた。長浜と糸洲は、一つちがいであつたが、師弟の関係を結んだのである。長浜先生は其の当時相当に名の売れた方であつた。非常に熱心家で常に庭先で朝早くから、稽古を初め、夕日が大分西にかたむいて、稽古する影が妻君の機織にかゝる時を以て止められたそうである。処が先生は松村先生とは反対に専ら力を出し、身体を堅める方に専念して、稽古をして居られたさうで、その先生が自分の死に臨み、高弟の糸洲先生を枕頭に呼び、「私は是迄で、力一ぱいに稽古をさせたが、実際の場合と言ふ事を一寸も考へず、自由と敏活を(か)いでいる。今日になつて深くさとる処があるから、今後は是非松村について研究して呉れ」と遺言されたそうである。誠に心すべきことである。」
本部朝基 昭和7年出版『私の唐手術』・「稽古の心得(松村・長浜・糸洲翁の話)」より